2004年7月刊『報道の自由が危ない』飯室勝彦

「週刊文春」2004年8月26日号 評者 大谷昭宏(ジャーナリスト)

衰退する日本の民主主義のカルテ
 読み進むうちに検査結果の貼られたカルテを見ながら深刻にペンを走らす医師と、その前に座る患者の姿を思い浮かべた。医師はもちろんこの本の著者であり、患者はメディアである。だが、患者の心も二つに割れている。
「大したことはない。病んでいるのはほんの一部」とタカを括るのは、全国紙を中心とする大手メディアであり、事態の重大さに一刻も早い治療の必要性を痛感しているのは、週刊誌をはじめとする出版ジャーナリズムであろう。
 まさに表題にある通り、日本の報道の自由は危機に瀕している。メディアは包囲されてしまったといっていい。著者はその状況を週刊文春出版差し止め事件、イラク派兵の報道規制、テレビ朝日のダイオキシン汚染報道、和歌山毒入りカレー事件における裁判官の報道官関与など、様々な事例を通して説き起こして行く。
 だが、例えば週刊文春差し止め事件では「朝日新聞の社説『警鐘はわかるけれど』は高みから週刊誌を見下したような論調で」「多くの新聞の差し止め批判も単なる建前論」で「『わが事』と受け止める危機感が感じられな」いうところに日本のメディアの不幸がある。
 中でも著者の筆が鋭さを増すのは「裁判官は表現取締官になったのか」の章であり、「教師として振る舞う裁判官」の項であろう。法的評価より先入観、メディアに対する嫌悪感の方が先立っているとしか思えない判決。名誉毀損事件におけるメディアへの異常な賠償金の支払い命令。
 もとより賛否両論はあろう。しかし裁判官のこうした特権的姿勢、何よりも民主主義社会をプロテクトするという意識の欠如がとりあえず重大事件のみとはいえ、裁判への市民参加という事態を余儀なくしてしまったことは確かだろう。
 私は民主主義社会の根幹をなすものは表現の自由であり、公正な裁判だと信じている。だが、その二本の柱を蝕んでいるのは両者の中に一部とはいえ潜む特権的意識ではないのか。
 本書によって突きつけられているのは危機に瀕するメディアの姿だけではない。衰退し、衰弱する二本の民主主義のカルテなのだ。

 

「新聞研究」2004年9月号

北朝鮮拉致問題の報道をめぐるメディアの委縮、イラク自衛隊派遣の際の防衛庁、政府による情報統制、ダイオキシン報道の最高裁判決の問題点など、報道の自由に関する時々のテーマについて、筆者が過去に発表した論考をもとに書き改めまとめた。言論の自由に理解を示さない最近の司法判断や、政治、行政による一方的な報道批判に対して反論を加える一方、新・新聞倫理綱領が制定されるに至った背景やサマワ自衛隊派遣に際してのメディア側の取材申し合わせを取り上げながら、現在のジャーナリズム状況にも歯にも着せぬ批判を展開している。