2009年4月刊『水俣のこころ』浅見洋子

「赤旗」2009年8月2日 評者 本吉真希

詩で伝える悲しみ喜び差別
 「日常の生活の中で私が感じとった水俣をそのままみなさんに伝えたいの」。水俣の地を訪れ、患者はもとより、その土地に生きる人々とふれあい、そこで感じた水俣の怒りや悲しみ、喜び、周囲による無意識の差別を詩で表現します。
 見落としがちな何気ない日常の風景に、繊細な心が動きます。あるベテラン漁師宅を訪れた際、自分との違いを見逃しません。その情景をこうつづりました。
 「出された茶 湯呑みは熱く とまどう 私/右手で 熱い湯呑みを しっかり握る 開田さん/温度を感じとれない 慢性病水俣病の 手だった」
 1987年、現地調査に初めて参加しました。それまで「水俣」のイメージは「海」「水銀」「汚れ」でした。でも、とてもユーモアある一人の女性と出会い「どんなに大きな障害をもっていても人間は人間として心を育てている」と体感。そのとき「ほんとにガツーンときた。人間という水俣を感じさせられた」。
 出発点はアルコール依存症の13歳違いの兄でした。精神的、経済的負担が家族に大きくのしかかる中、「法律と医療、弁護士と医師が協力しあって病人を抱えて苦労している人たちを助けてくれないかなと18歳のころから考えてた。それがずーっと水俣の問題に直線でつながっている」。
 裁判傍聴を重ねる中で「国とは、行政とは」と考えました。あとがきで憲法と民主主義に触れています。水俣病の問題は「環境問題であり、次世代への生活生存問題」。なのに、国や行政は「憲法の示唆する方向とは異なるレールの上を走っていないか」。真の民主主義実現へ、詩の創作と社会は切り離せません。

 

「西日本新聞」2009年8月15日 評者 塚崎謙太郎

〈働かない海が ある/働けない海が ある/不知火の海が 拡がる/利益社会の業により/海の生命を うばわれた/不知火の海 沈黙の海〉(「生ふたたび」より)
 6年ほど前、母親と水俣を訪れたとき、水俣病資料館のそばで不知火海を見つめた。何度も訪れてきた海だったが、あらためてその青い深さに驚き、強い風を浴びながら、1時間近くそこにいた。そして、この詩が生まれた。
 初めて水俣の地を踏んだのは、1987年の夏。水俣病全国現地調査団に同行し、胎児性水俣病患者と出会い、「人間の尊厳というものを強烈に考えさせられた」。以来、写真家の田中史子さんと定期的に水俣を訪問するようになった。療養施設「明水園」でボランティアをさせてもらい、胎児性患者の鬼塚勇治さんらとも親しくなった。詩集には、水俣病への怒りや悲しみとともに、20年の出会いもつづられている。
 東京に暮らし、特別な主義主張をもたない立場ゆえ、被害者や弁護団、国の官僚、医師らさまざまな立場の人に出会い、話を聞くことができた。運動に打ち込む支援者の姿に感動し、胎児性患者たちの頑張りにも心を打たれた。そのうち、目線が揺れて、「一体、水俣の何を書こうとしているのか分からなくなった」時期もあったという。
 それでもいつか必ず水俣病をテーマに詩集をつくろうと思い続け、7冊目の詩集でようやく実現した。「この20年間、私の中に地下水のようにあり、生まれなかった言葉を、ようやく形にすることができました」。水俣の友人たちには、まだ詩集を送っていない。近く、自分で手渡しに行くつもりだ。東京都在住、60歳。

 

「婦民新聞」2009年8月10日・20日(合併号)

 「働かない 海がある 働けない 海がある 沈黙の海 不知火の海」詩人・浅見洋子の水俣にかかわる原点といえる一篇です。
 浅見さんが現地調査団に参加して水俣を訪れたのは1987年、「あの日から わたしの水俣が はじまった」(序章「わたしの水俣」より)。そこで目にした光り輝く、美しい海「不知火」、その海が人々の命を蝕む強烈な毒をのみ込んだ海であることを知った詩人の驚き、怒り、悲しみ。それを自身の修羅として歩んできた20年が、この詩集に凝縮されています。
 「母さんの海」では胎児性水俣病を、「産まれない生命」では、流産に終わった胎児のいのちを、川に落ち、塊りになって流れていく赤い椿の花にイメージを重ねています。また生活のすべてを姉の手にゆだね病とたたかう女性の人間としての誇りを、ふとした行為で傷つけてしまった慙愧の思いを刻む「挫折」。そして「娘のお陰で 人の幸せを 教えられました」という胎児性水俣病の子を持つ父の言葉(「四十八年目の水俣病」)。
 あとがきにはこうあります。「水俣病問題と向き合う私は、心のどこかで『国とは 行政とは』と問い続け」憲法前文を読んでみるのです。浅見さんの「水俣」をめぐるたたかいは、まだまだ続きそうです。