2010年12月刊『砂川闘争の記──ある農学徒の青春』武藤軍一郎


労働運動研究 2011年12月復刊第30号(通巻414号) 評者 社会学研究者 白樫久

1)本書は砂川事件元被告、武藤軍一郎氏の砂川事件との関わり合いを中心とした生い立ちの記録である。しかし、本書の圧巻は、東京都立川市に隣接する元の砂川町(現在は立川市)での米軍立川飛行場拡張計画に対する、武藤氏をはじめとする当時の東京農工大学学生の闘いの記録と、その闘争の過程で逮捕された武藤氏等7人の被告の日米両政府を相手にした裁判闘争の記録である。砂川事件と言っても多くの人は、既に記憶の彼方になっているかもしれない。しかし「伊達判決」というと、憲法9条にのっとり、「日米安保条約に基づく、日本国内の米軍基地は憲法違反」と判決を下した裁判として記憶がよみがえる人は多いであろう。伊達判決は、この砂川事件に対する裁判の第一審の伊達秋雄裁判長が下した判決であり、本書の著者武藤軍一郎氏はその被告の一人だった。

2)武藤氏の東京農工大への入学までの生い立ちは、序章と1章に記されている。武藤氏は1934(昭和9)年、高知の生まれであるが、農林省職員であった父親の転勤で戦前から戦後、全国を歩いている。1947(昭和22年)、新制中学2年生の時熊本県八代氏に転居、八代高校の日本史の授業で与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」を藺草の泥染めの香りただよう道を友人と詠いながら帰った様子が書かれている。武藤氏は、この八代高校から1955(昭和30)年、東京農工大学に入学する。

3)第2章と3章は、武藤氏が入学した東京農工大での学生生活を駒場寮の寮生活や学生運動を中心に書いている。旧制高等農林学校の伝統を持つ駒場寮は、戦後の貧しい食糧事情が続いていたが、夜、ストームをかける破天荒の行状等が残り、「雲とまた自由の棲む処」と寮歌に唄われる自治寮であった。武藤学生も友人と屋久島に大旅行したり、農学部学生らしく競馬場の厩舎管理のアルバイトをしたり、奥只見に出かけて山間部の農業や林業の勉学に向い、現地の人々と勾留したりしている、
当時の政治情勢は、朝鮮戦争は休戦になったが、米ソの軍事的対立は益々激しくなり、日本は1951(昭和26)年、ソ連等を除いた講和条約を締結、同時に日米安保条約を結び、冷戦の最前線に立つことを宣言した。1954(昭和29)年、米国のビキニ水爆実験で第五福竜丸が被曝し、原水爆禁止運動が日本に広がったのもこの時期である。学生運動は、全学連が1948(昭和23)年に結成され、1949(昭和24)年から50年にかけてGHQイールズ氏が各大学自死した大学でのレッドパージ推進の講演で反対したり、大学管理法阻止のために、ストライキで闘った。こうした動きは武藤学生が入学に先立つ東京農工大の学生にも影響して、1952(昭和27)年の皇居前のメーデーに参加した農工大の学生が、警官の暴行で負傷し(いわゆるメーデー事件)、逮捕に追われる学生が同大の教官に保護されたことも記述されている。農工大農学部自治会は、この年、「破防法」反対のストライキも実施している。しかし武藤氏が入学した頃、学生運動は破防法の成立等、政府の反動的な動きの影響で沈滞していた。これには、学生運動に強い影響力を持っていた共産党の1950(昭和25)年頃からの分裂、そのなかで「武装闘争」の方針が続き、1955(昭和30年)、いわゆる「六全協」で是正されたが、「学生運動における混乱と犠牲は計り知れないほど大きく、停滞していた」と述べている。
東京農工大の学生運動は、こうした状況のなかで「自らの手で、学生の要求をとりあげた新しい学生運動を模索し」、武藤学生は、先輩達が始めていた「農学ゼミナール運動」に参加していった。農学ゼミナールは農学系学生の自主的学習活動である。農工大では1955(昭和30)年、モスクワで開かれた国際農学ゼミナールにも学生を派遣している。2年生の時、武藤氏は宇都宮大学で開かれた第3回全国農学ゼミナールで事務局長に就任している。また2年生の春、農学部自治会の副委員長にも選出され、警職法反対闘争、授業料値上げ反対の闘い、さらには原水爆禁止運動に取り組み、府中市に原水協を結成して、原水爆禁止大会を開催した。

4)第4章と5章は砂川闘争の経過である。朝鮮戦争が休戦になったものの米ソの軍拡競争は益々はげしくなり、日本の米軍基地は、締結された日米安保条約に基づき有無を云わせない基地拡張、新設が強行され、内灘(石川)、妙義(群馬)、板付(福岡)、富士(静岡)、相馬ガ原(群馬)等で住民と激しい対立がおきていた米軍は、1954(昭和29)年頃から立川、小牧(愛知)など5ケ所の飛行場をジェット爆撃機の発着が出来るように拡張しようとしていた。立川飛行場の拡張計画は、1955(昭和30年)5月、砂川町に申し入れがあった。町議会は直ちに全会一致で反対決議を挙げ、町議会議長を会長に「反対同盟」を結成して町民挙げての反対闘争がはじまった。しかし日本政府は、日米安保条約に基づいて計画を強行してきて、その年の8月には警官に守られながら拡張予定地の測量が始められ、反対する住民、支援の労働者、学生と激しくぶつかった。当初の反対闘争は、反対同盟に集まる砂川町の農民、住民が主体であったが、労働者、学生、社会党等との共闘が次第に強まっていった。9月の測量強硬には首都圏の労働者、学生が再び多数終結し、これに対しては政府は5000人の警官を動員して阻止する人々を排除し、警棒を頭からふりおろして多数の流血者、負傷者を出した。政府はこの後、反対同盟に結集する農民、基地内で働く地元緒労働者に圧力をかけるなど猛烈な切り崩しを行い、反対同盟への農民、住民の結集は急速に減少していった。政府は、翌年の1956(昭和31)年10月、再び測量を強行してきた。反対同盟は、労働組合、学生にたいして支援を要請し、都学連の学生が多数、測量の阻止に集まった。10月の2日間の測量には、政府は前年以上に強攻策を繰り返し、4000人以上の反対同盟の人々と支援の労組員、学生、社会党、共産党の関係者等に警察官が襲いかかり、1000人以上の負傷者を出した。この流血の惨事は、新聞、テレビ、ラジオで広く報道され、政府の強攻策に対して非難が広がり、政府もようやく測量の強行を中止した。

政府の拡張の強攻策に対しいて花井同盟の8戸の農民は、立川基地内の既存の貸付地の契約更新を拒否し、基地内の12,000坪の土地の返還訴訟を起こした。政府はこれに対して、「土地収用法」をもって強制的に土地取り上げをしようとして、1957(昭和32)年基地内の収用予定地の測量を強行しようとした。反対同盟の要請で終結していた、多数の学生、労働組合員は有刺鉄線で囲まれた基地の外でスクラムを組んで抗議していたが、一部の支援の人が基地内に侵入し、その中に農工大の武藤氏も含まれていた。二ヵ月後、武藤氏を含む学生、労働者23名が逮捕された。数名の学生が逮捕された東京農工大では、教授会、学生自治会が逮捕者の釈放の要請、支援に動いた。これが砂川裁判の発端である。

5)本書の第6章から9章までは、23名の逮捕者のうち、3人の学生と4人の労働者が基礎されていたが、その砂川裁判闘争の経過が書かれている。訴状は「日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法第二条違反」とされていた。総評は直ちに弁護団を組織し、総評を軸とする裁判闘争になった。東京地裁の公判は、1958(昭和33)年いっぱい続いて、12月論告求刑、翌年の3月30日、伊達秋雄裁判長は被告全員に無罪の判決を言い渡した。判決文の概略は、「刑事特別法第二条というのは国内法一般では軽犯罪法一条が該当するが、軽犯罪法一条に較べて刑事特別法第二条は量刑が重い。これは米軍の駐留、施設の安寧と平穏が必要であるという特別の根拠が要る。もし米軍の駐留が日本の憲法に違反しているとすれば、国民は正当な理由がないのに一般法より重い刑を受けることになり憲法31条に違反する。日本国憲法は自衛のための戦力を有することを禁じている。日米安保は日本に対する外国からの攻撃、或いは二国以上による教唆によって、国内に騒乱が発生した時は米軍が出動することになっている。この基地はアメリカの基地であって、アメリカにとって極度の危険と判断される時には、日本の区域外に出動することもあり得る。日本の米軍基地は、日本が基地と施設を提供し負担金を分担していることから、米軍の作戦に日本もかかわることになる。したがってこの米軍基地は日本の戦力ということになり・・・憲法違反の存在になる・・・」。
伊達判決は、安保条約とそれに基づく日本におかれた米軍基地は憲法違反であると真正面から判決を下した。
ちょうどこの時期、日米両政府は1951(昭和26)に講和条約と同時に締結された「日米安保条約」を改定する交渉を始めていた。その安保条約が、日本国憲法違反であるという判決は日米両政府に衝撃的な打撃を与えた。本書の「特別寄稿」に、国際問題研究所の新原昭治氏の「砂川闘争半世紀─米政府秘密文書が語る事件の内実」という論文がある。新原氏は、2008(平成21)年に、伊達判決翌日の1961(昭和36)年3月31日、当時の駐米大使マッカーサー二世が藤山外相と会談した時の報告電文を米国公文書館で発見した。その電文では、大使は藤山外相に伊達判決をできるだけ迅速に「正す」ように強調したり、最高裁へ跳躍上告するよう示唆するなど、日本の裁判への干渉ともとれる内容が書かれているという。

6)米国政府の意向に添ったのか、1959(昭和34)年4月、東京地裁は砂川事件を、高裁を飛び越えて最高裁に上告した。東京地裁判決で無罪を獲得した武藤氏は、伊達判決が出る一年間は農学部4年生であり、裁判闘争を続けながら卒業論文を書き上げ、判決の出たその3月、無事東京農工大を卒業した。武藤氏は卒業すると、そのまま農工大専攻科に入学し、農業経済学の研究を進めながら最高裁の裁判闘争を続けることになる。この時期、いわゆる安保条約改定に反対する「安保闘争」が全国で大きな盛り上がりを見せていた。武藤氏は専攻科での勉学を進めながら、安保反対の各地の集会に出て砂川裁判の意義を訴え、最高裁の判決が近づく1959(昭和34)年の年末には岡山、広島などの西日本各地をオルグして回っていた。武藤氏は、こうしたオルグ活動を続けながら九州大学の大学院の入学試験を受け、見事に合格している。最高裁での公判の論点の一つは、日本の「自衛権」をめぐる論議で、弁護側は「自衛のための戦力の保持は憲法に違反しないと主張し、東京地裁の判決は誤っている」と述べ、さらに「米軍は国連軍に準じるものである」とか「米軍は日本の指揮下、管理下に無く、日本の戦力には当たらない」と主張した。砂川事件に対して最高裁大法廷は、1959(昭和34)年12月、15人の判事全員一致で「第一審の判決を破棄し、東京地裁に差し戻す」を言い渡し、「米軍の日本駐留は憲法に違反しない。安保条約は高度に政治的に司法権になじまない」として自ら司法権を放棄した。

7)最高裁が伊達判決を全面的に否定した以降、裁判は東京地裁に戻った。筆者の武藤氏は九州大の大学院生になり、研究生活に入った。久大でも武藤氏の「守る会」が全学につくられ、支援が広がっていった。しかし、裁判そのものは最高裁の上告審の判決後、新しい展開はなくなり、1961(昭和36)年3月、東京地裁は差し戻しの判決を下し、「被告7人の有罪、罰金2000円」とした。判決文は最高裁の文の"引き写し"のような内容で、下級審は上級審に従わなくてはならないという弁明まで述べられていた。弁護団は直ちに上告するが、以後も新しい展開はなく、1962(昭和37)年2月、東京高裁は東京地裁差し戻し審判決の上告棄却、翌年12月の最高裁も上告棄却を判決して砂川事件裁判は終結する。武藤氏は、この間、被告としての立場は続いていいたが研究生活が中心となり、1965(昭和40)年3月、久大農学部大学院博士課程を終え、同年、九大農学部の教員生活に入る。
砂川闘争の逮捕者、警官の暴行による負傷者、被告にされ裁判を闘ってきた人々の長年の苦労ははかりしれないが、闘いの結果として立川飛行場の拡張は許さなかったというのは、当時の米軍を相手にして勝利した唯一の基地闘争であったという。

8)本書の「特別寄稿」には、砂川事件弁護団の一人、内藤功氏の「砂川裁判が現在に問いかけること」という論文がある。そこには弁護団の一人として、事件の初めから最高裁への上告審までの活動が書かれているが、主として第一審の伊達判決の内容と、その判決の意義について書いている。伊達判決は、その判決が出た直後の安保闘争に大きな励ましを与え、さらに、その後の日本の平和運動、基地闘争、恵庭事件、長沼事件、百里事件、イラク訴訟など、安保条約破棄を求める運動に大きな理論的な基礎を与えたと述べている。内藤氏は同文で、伊達判決と並んで長沼自衛隊違憲判決(1973年)、名古屋高裁の自衛隊イラク派兵違憲判決の三判決を「生きた憲法九条」として、常に読み、学んでいくことの意義を述べている。
もう一つの新原昭治氏の寄稿論文については左記に述べたが、1951(昭和26)年の(旧)安保条約調印についての米秘密文書も驚きである。日米平和(講和)条約調印の前夜、アメリカが突然、安保条約の調印を全健団(6人)に提起し、共通認識になかった全健団の2人は安保の調印式には欠席し、他の3人も調印をしないで吉田全権代表だけが調印に署名したという。このことの事情を、この秘密文書が明らかにしているという。アメリカは(旧)安保条約を秘密裡に、ごくわずかの日米の関係者と準備していて、全権団では吉田首相以外条文を知らされていなかったという。アメリカが日本に対して、如何に超法規的、超憲法的に理不尽な関係で君臨していたかという証である。恐らく、今日も、この関係は変わっていないのであろう。
本書の各章の概略を記して、全体を紹介してきた。著者の武藤軍一郎氏は、自分の障害の一過程として砂川事件、そして、その被告とされた日々を書いているが、その内容は、きわめて現代的意義をもっている。今、憲法9条を守り、憲法改悪に反対する運動が大きな広がりを見せている。一方で沖縄の米軍基地の撤去を求める沖縄県民の声も大きくなっている。こうした時、50年以上前の砂川闘争と伊達判決は、きわめて時宜にかなったかなった学習課題であり、本書の持つ意義は大きい。私事となるが、東京の高校1年生であった時は、1956(昭和31)年の砂川闘争に友人と参加している。浅沼社会党委員長が大きな体をゆすってデモの先頭に立っていた姿、日本山妙法寺の白装束の僧侶がうちわ太鼓をたたきながら歩いていいた姿、日本鉄管労組の鮮やかな赤い組合旗が、今でも眼に浮かんでくる。その後、自分も平和運動に携わってきたことからの総括して、同じ目標と課題をもちながら常に運動が分裂してきた日本の平和運動は歴史的総括が必要であると考える。砂川闘争の「実質的な勝利」をもたらした力は、総評、社会党、共産党等の共闘、折からの安保闘争に結集した大衆的力であったろう。現在の憲法9条の闘い、沖縄の米軍基地を無くす闘い、そして原発を無くす運動に、砂川闘争に見られたような闘う力が大きく結集することを望みたい。本書は、そういう視点からも貴重な記録である。

 

『日本の科学者』vol.46 No.8 2011年8月 評者:北川勝弘(名古屋大学)

1960年の安保闘争(日米安全保障条約の改定に反対する闘争)から、半世紀が経つ。わが国では今日、米軍沖縄基地の県外・国外移転をめぐる論議が大きな関心事となっている。この問題を考えるうえで、最近、「米軍駐留は日本国憲法第九条に違反する」と断じた、1959年に出された歴史的な「伊達判決」の見地に立ち返って考えなおす必要がある、との意見も聞かれるようになってきた。
 そのような折りに、実に格好の書籍が出版された。半世紀前に伊達判決を直接に受けた農学者による、「砂川闘争」の回想記である。
 まず、砂川闘争について触れておく。安保闘争に先立つ1950年代には、日本の全国各地で、米軍による演習場や基地の新設、拡張などの土地強奪に反対する闘いがくりひろげられた。首都東京にあった米軍立川基地でも、ジェット機で核兵器を輸送できる規模に滑走路を拡張する計画が、基地に隣接する砂川町に1955年に突然提示され、数回にわたり強制観測が行われた。これに対して、地元農民を中心とし、労働者や学生などが共同した粘り強い反対闘争が展開された。1957年夏に行われた強制測量に反対する地元農民支援集会の際、学生3名を含む7名が、基地内に4.5メートル"侵入"したとの理由で、「日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」の罪で起訴された。これが砂川闘争の発端である。
 これに対して、当時、砂川支援の運動が全国的に展開され、2年後の1959年3月に、「米軍駐留は違憲」とする画期的な伊達判決が出されて、一審では被告全員が無罪となった。その後、伊達判決を反故にするための日米両国政府による画策を受け、最高裁判所へ"跳躍上告"された結果、伊達判決は1959年12月に破棄され、被告らは1963年に最終的に有罪(罰金刑)とされた。
 しかし、砂川闘争の闘いは、50年を経た今日でも、わが国の主権と平和、国民の人権を侵すものとしての安保条約への本格的批判を国民のあいだに広く共有させたものとして、その重要な歴史的意義を少しも失っていない。なお、砂川の米軍基地は、その後も粘り強く基地返還闘争が継続された結果、1977年に全面返還された。
 さて、本書の著者武藤軍一郎氏は、1950年代半ばに東京農工大学に入学し、勉学に打ち込むとともに、農ゼミ(全国農学学生ゼミナール)活動や学生運動、原水爆禁止運動に情熱を傾けていたが、3年生の夏、たまたま米軍立川基地の滑走路拡張に反対する集会に参加して、基地内"侵入"の罪で刑事被告人とされてしまう。著者は、長い公判闘争を学友たちの励ましなどを受けながら粘り強く闘いぬき、大学卒業直前の1959年3月に、伊達判決が出された結果、一審では無罪となった。その後、著者は有罪(罰金2000円)とされ、周りの一部には偏見もあったと思われるが、伊達判決の精神をバックボーンとして毅然とした生き方を貫き、それに深い理解を示す指導者にも恵まれ、大学卒業後は九州大学で大学人となる道に入り、1998年の定年退職まで農学者として過ごした。
 本書はこの間、著者や農ゼミやその他の活動などを通じて、大勢の友人たちとなごやかに交流する模様が、魅力的に記されている。学生寮での生活ぶりや、友人たちによる裁判支援活動などでの交わりの姿は、まさに青春群像とでもいうべき輝きに満ちている。
 最近の沖縄米軍基地撤去の闘争や、憲法九条を守る全国的な運動の盛り上がりを考えるうえで、改めて砂川闘争と伊達判決が歴史的に果たした大きな役割から学ぶべき点は、たくさんある。本書が、多くの方がたに読まれることを期待したい。

 

法学館憲法研究所『今週の一言』(2011年7月25日)http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20110725.html

私の砂川事件の発生

 世間に知られている砂川闘争は1955年と1956年秋の米軍立川基地拡張反対の闘争である。砂川町の基地拡張反対同盟、これを支援する労働者・学生、数千人に対し武装した数千人の警官隊がコン棒で殴り、突き、蹴って多数の流血者を出し、社会の厳しい批判を受けた。私が加わった砂川事件は1957年7月8日に端を発した。8人の農民が返還を求めた滑走路の一部の土地を強制使用するため、岸信介総理大臣の強権発動による測量が行われた。この測量に抗議していたデモ隊は、基地の外柵を壊し基地内に5m程侵入したのである(外柵を壊したのは一部の者による策謀であったが、紙面の都合で触れない)。それから約2ヶ月後の9月22日の未明23人の労働者・学生が逮捕された。私もこの23人の中の1人で、10月2日にこの中の7人が東京地裁に起訴された。起訴は日米安全保障条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反によった。

日米政府を驚愕させた伊達判決

 当時、私は東京農工大学農学部の3年生であった。東京地裁における公判は、1958年1月から始まった。判決は卒業式の数日後の1959年3月30日に下った。伊達秋雄裁判長は「7名全員を無罪とする」と冒頭で言い、続いて「 米軍が日本に駐留することが日本国憲法に違反する」という判決を静かに読み上げた。私の体の中に重くのしかかっていたものが飛び去った。爽快で浮き立った目に、裁判所玄関前に青空をバックにはためく日章旗と満開の桜が気持ちよく飛び込んできた。この伊達判決は憲法を素直に正しく解釈したものであったが、日米安保改定を目前に控えた日米政府には驚愕であり、その慌てぶりは当時の新聞に生々しく伝えられている。

最高裁への跳躍上告

 1959年4月3日に政府・最高検は高裁を飛び越え、最高裁に上告した。1960年初めに予定されている安保改定のために、伊達判決は一刻も早く葬り去らねばならなかったからである。私は他の被告達、弁護人達と共に伊達判決支持を、安保改定阻止で闘っていた諸集会を廻って訴えた。

自らの司法権を放棄した最高裁の判決

 安保改定のために一刻も早く公判を終えることを望む日米政府の意を汲んだ最高裁は、短期間で公判を打ち切る強硬な手段に出たのである。激しい前哨戦を経て1959年9月に6回の公判が開かれ、12月16日に大法廷で判決が出た。「米軍駐留は安保条約によって規定されており、条約は高度に政治的で司法の審査になじまない」として原判決破棄、差し戻しを言い渡した。最高裁長官は反共主義で有名な田中耕太郎であったが、15人の判事全員が賛成していたことは誠に恥ずかしいことであった。かくして歴史的に素晴らしい伊達判決を葬り去り、安保改定への道ならしを行ったのである。

その後の私と本の出版

 私は1960年に九州大学の大学院に進み、研究者の道を歩んだ。大学院で学びながら差し戻し裁判に出席した。私の公判を支援する会が九大全体に広がり、カンパによって上京を可能とした。裁判は東京地裁で1961年に結審し、罰金2,000円となった。東京高裁もこれを認め、1963年に最高裁もこれを認めて、私の砂川公判闘争は終わった。
 私は5年間大学院で学び、1965年に九大農学部附属農場に助手として勤務した。1998年に九大を定年退職し、現在は名誉教授である。2009年のある時、私は考えた。米軍立川基地は1977年に全面返還されたが、沖縄をはじめ多くの米軍基地が残っている。伊達判決を私の宝として誇るだけでなく、若い人に語り継がねばならない。そこで思い切って書いたのが『砂川闘争の記-ある農学徒の青春-』である。

武藤軍一郎(九州大学名誉教授)
◆武藤軍一郎(むとうぐんいちろう)さんのプロフィール 1934年高知県に生まれる。東京農工大学農学部農学科卒業後、九州大学大学院農政経済学科修士課程を修了し、同大学院博士課程を単位取得退学。 1965年に九州大学農学部附属農場に助手として勤務、1998年に定年退職する。現在、九州大学名誉教授、農学博士。 主要論文に、「菊鹿平野における農法の展開」『農業経営の歴史的課題』農文協、1978年。「南佐久における農業構造と農民運動」『南佐久農民運動史(戦前編)』第一法規出版社、1983年。「戦前期、肥後農法に関する研究」『九州大学農学部附属農場報告』第8巻、1998年。

 

『読売新聞』2011年1月15日 三多摩版

運命を変えた「砂川事件」
青春の法廷闘争 自伝に

 米軍旧立川基地(立川市)の拡張に反対するデモ隊の一部が1957年、基地内に侵入して逮捕された砂川事件で、元被告の一人、九州大学名誉教授の武藤軍一郎さん(76)(福岡県篠栗町)は、自伝「砂川闘争の記――ある農学徒の青春」を出版した。14日、思い出の地の立川市を訪れて記者会見を開き、「事件を知らない若い人たちにぜひ手にとって読んでほしい」と語った。
 武藤さんは東京農工大在学中の57年7月、地元の農家らが土地接収に反対した運動に共感し、活動に参加した。その後、基地内に立ち入ったとして日米安全保障条約の刑事特別法違反の罪で逮捕、起訴された。第1審の東京地裁で59年3月、米軍駐留を違憲としたいわゆる「伊達判決」で無罪を言い渡された。これに対し、検察側は最高裁に跳躍上告し、同12月に最高裁大法廷は1審判決を破棄。その後、差し戻し審で争ったが、63年12月に最高裁が上告を棄却し、罰金2000円の有罪が確定した。
「刑事事件の被告人が公務員や会社員になるのは難しい」と考えた武藤さんは学者を志し、裁判の傍ら農学の勉強を続けた。65年に九大の助手として採用され、98年の定年退職まで同大農学部の教授を務めた。
 大学で教えていた頃は研究などに忙しく、事件を周囲に語ることは少なかった。2008年、東京農工大の関係者から砂川事件について校史に執筆するよう依頼されたことから、当時の裁判ノートなどを再び読み返し、「後世に伝えたい」と考えるようになった。その原稿を読んだ大学関係者が09年、知人の出版社社長に持ちかけ、出版が実現した。
 武藤さんは白内障などで目がみえにくいため、資料を数文字ずつ拡大鏡を使って読み込んで執筆を重ね、本を完成させた。花伝社(千代田区)発行。A5版、315ページ。13章構成で、高校時代や大学時代のこと、砂川事件の被告人として裁判に臨んだ気持ち、農学者として研究に打ち込む日々のことなどが写真とともに克明に描かれている。また、資料として「伊達判決」の判決文も収録されている。武藤さんは「1975年を境に私の運命は大きく変わった。青春の日々、裁判で闘った生き様、平和に対する思いを、多くの方に読んでもらいたい」と話している。

 

『毎日新聞』2011年1月24日 地方版(東京、北海道、東北、千葉、埼玉、茨城、群馬、山梨、神奈川) 記者:浅野翔太郎

砂川闘争:武藤・九大名誉教授が自伝を出版 米軍基地返還、体験を記録に

「農学徒の青春」回想
 米軍立川基地(当時)拡張に反対する住民らの一部が基地内に侵入した砂川事件で、逮捕・起訴された元被告で九州大農学部名誉教授の武藤軍一郎さん(76)がこのほど、事件や自身の半生を振り返る自伝「砂川闘争の記――ある農学徒の青春」(花伝社)を出版した。
 武藤さんは東京農工大在学中、農家らの土地接収の反対運動に賛同して砂川闘争に参加。大学3年次の57年7月8日、米軍基地拡張のための測量に反対する住民やデモ隊の一部が敷地内に侵入し、23人が日米安保条約に基づく刑事特別法違反容疑で逮捕され、武藤さんを含む7人が起訴された。「スクラムを組んでいたら、いつの間にか敷地内に入っていたという感じだった」と当時を振り返る武藤さん。学生運動の一線からは退いていたが、当日は、農家の人らに請われて急きょ加わっていただけだった。当時の新聞は「指導的立場の人物を逮捕」と報道し、警察の取り調べでは執拗に関係者名を聞き出された。
 1審では米軍基地の駐留を違憲とした「伊達判決」で無罪を言い渡されたが、検察側が跳躍上告した59年の最高裁大法廷は1審判決を破棄。武藤さんは63年、差し戻し審で罰金2000円の有罪が確定した。
「自分の中で、砂川が風化していたんです」。裁判を争いながら九州大農学部で勉強を続けていた武藤さん。講演や寄稿には応じていたが「『またその話か』と人に思われたくなかったんでしょう。自分から砂川事件の話をすることは無くなっていました」と話す。08年、東京農工大の校史編さんに伴い、大学関係者らに寄稿を依頼された。再び当時の資料を読み返すうちに、自分の体験を記録にとどめておきたいと考えるようになり、知人らの協力もあって出版にこぎ着けた。
「今の沖縄の問題にも少なからず共通する部分はあると思います。米軍基地を返還させた当時の様子を少しでも分かってもらえれば」と話す。

 

「東京新聞」2011年2月12日 記者 萩原誠

今こそ語る砂川事件 元被告・武藤さんが自伝出版

 砂川町(現立川市)にあった旧米軍立川基地をめぐる砂川事件で、基地に立ち入ったとして起訴された元被告の九州大名誉教授武藤軍一郎さん(76)が自伝「砂川闘争の記 ある農学徒の青春」を出版した。事件の経過や意義など、友人との対話形式を取り入れて分かりやすく記述しており「事件を知らない若い人たちにも読んでほしい。沖縄基地問題が注目される今、平和や基地を考えるきっかけにしてもらえたら」と話している。
 基地拡張予定地の測量をめぐって反対運動が激化した一九五七年当時、東京農工大(府中市)に在学していた武藤さん。自分たちの土地を守ろうとする地元農家の思いを知り「農学を学ぶ学生が、農民が困っているのにどうして知らない顔ができるか」と運動に参加した。
 同年七月に現地に出向いた際に基地に立ち入ったとして、日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反罪で起訴された。武藤さんは「敷地外で仲間とスクラムを組んでいたらズルズルと動きだし、気付いたら基地内に入っていた」と振り返る。しかし、前年まで学生運動の委員長として活動していたこともあってか、警察側から「指導的立場」とみられた。
 東京地裁(伊達秋雄裁判長)が五九年三月、「駐留米軍は違憲で無罪」とする伊達判決を言い渡した。検察側は跳躍上告し、最高裁は同年十二月に一審判決を破棄、後に罰金刑が確定した。
「元刑事被告人が就職するのは難しい」と考えた武藤さんは卒業後、九州大大学院で研究を続けた。名誉教授にまでなれたのは、指導教授や仲間に恵まれたからという。
「事件から何十年もたつうちに、自分から話題にもしなくなっていた」という武藤さんだが、転機は二〇〇八年に訪れた。東京農工大関係者から、大学の歴史を記す資料の一部として砂川事件の執筆を依頼され「元被告として語り継ぐ責務があると感じた。私の体験から若い人に何かつかんでほしい」と自伝の執筆を決意した。
 裁判闘争や、人生を支えた仲間たち、指導教授らとの温かな交流をつづっており、一審の判決文や判決の意義を分かりやすく解説した関係者の寄稿も掲載した。

 

「赤旗」2011年2月13日 評者 稲沢潤子(作家)

勇気と人間の豊かさを教える

ひと言でいって感動的な本である。それは砂川闘争、伊達判決、平和憲法擁護というきわめて今日的なテーマに支えられてもいるが、もう一つは人間への信頼、師弟愛、友情や出会いの美しさにある。読みつつ思わず目頭が熱くなり、あるいは青春の錯誤や冒険に微笑をさそわれる。著者の悠揚迫らぬ行き方に自分自身を反省させられ、久しぶりに血がたぎるのを感じた。
 著者は砂川事件の元被告で、現在九州大学名誉教授。
 1957年、米軍の立川基地拡張計画に対して、砂川町の農民町民が断固反対を表明して立ち上がった。その一連の示威行動のなかで基地内に踏み込んだとして逮捕されたのが砂川事件である。東京農工大の学生だった著者も、反対同盟の要請に応じて参加し、不当逮捕、起訴された。
 当事者であればたたかいの全記録を書きたくなるのがふつうだが、本書はそういう形式張ったスタイルをとっていない。なぜ砂川に行ったか、その後どのように生き、どのような出会いがあったかを、資料と体験にもとづいてエッセーふうにつづっている。
 最も重要なのは、一審の東京地裁・伊達秋雄裁判長による「米軍の駐留こそ憲法違反、被告人は無罪」という「伊達判決」のすばらしさとその後の日米政府の対応である。60年安保を直前にしてあせった反動勢力は、高裁を省略して最高裁に跳躍上告し、安保改定に合わせて裁判日程を調節し、伊達判決をくつがえして有罪判決を出させた。この異例の跳躍裁判にマッカーサー米大使の圧力があったことは、最近(2008年)新原昭治氏が解禁の公文書を調査中に発見したもので、巻末には新原氏と当時の弁護人内藤功氏の特別寄稿が掲載されている。平和憲法の尊さとともに勇気と人間の豊かさを教えられる一冊である。

 

『朝日新聞』2011年3月10日(東京都内版、三多摩版)

 砂川闘争「被告」の青春
 旧米軍立川基地(立川市)の拡張計画を阻止しようとデモ隊が侵入し、学生らが逮捕された「砂川事件」で、逆転有罪判決を受けた武藤軍一郎・九州大学名誉教授(76)=福岡県篠栗町=が、元被告としての歩みをつづった自分史「砂川闘争の記 ある農学徒の青春」(花伝社)を出版した。在日米軍の駐留を違憲とした「伊達判決」への思いや、今なお米軍基地問題を抱える沖縄への共感をつづっている。(米沢信義)    
 1957年9月22日の早朝、当時東京農工大3年だった武藤さんは、学生寮で寝ていたところを警察官に囲まれ、いきなり逮捕状を突きつけられた。2カ月前に、砂川町(現立川市)の基地拡張計画に反対する学生デモの最前線に立ち、柵を破って基地の中になだれ込んでいた。写真で顔を特定され、日米安保条約に基づく刑事特別法違反に問われたのだ。
 学生ら23人が逮捕され、7人が起訴された「砂川事件」。その被告として、「一生の十字架を背負った」。5年間の裁判闘争の間に、天国と地獄ほどの落差を味わった。
 59年3月の東京地裁判決は、予想外の「全員無罪」。伊達秋雄裁判長は、在日米軍の駐留そのものが、戦力不保持をうたう憲法9条に違反していると断じた。「頭上の暗雲が吹き飛び、晴れ渡るような喜びだった」  しかし、検察側が一気に最高裁に持ち込む「跳躍上告」を行うと、最高裁は同年12月、一審判決を破棄し、期待は一気にしぼんだ。九州大大学院に進学した後も、東京まで列車を乗り継ぎ差し戻し審に足を運んだが、最高裁で有罪、罰金2千円が決まった。
 「国に反逆した私は、どこも拾ってくれない」。そう思っていたら、九州大の教員に。後で指導教授が、教授会で自分をかばって推挙してくれたことを知った。
 名誉教授にまでなれたのは、「無力な自分を支援してくれる人々がいたから」と振り返る。
 事件について周囲に積極的に語ることはなかったが、2008年、母校の東京農工大の関係者から、砂川事件について校史に執筆するよう依頼されたのをきっかけに、「若い人々に思いを伝えたい」と思うようになった。
 本では、学生運動に参加した大学生活や裁判を抱えながら農業研究に打ち込んだ大学院時代を中心に、「心の支えとなっている」という伊達判決の判決文なども収録した。
 今なお米軍基地が集中する沖縄との連携も呼びかける。裁判で敗れたとはいえ、立川基地拡張に反対した人々の思いは、77年の基地返還に結びついた。青春のエネルギーをつぎ込んだ砂川事件の体験を、基地問題に揺れる沖縄にも伝えたい。「それが伊達判決の語り 部の責任です」


『朝日新聞』2011年4月9日 九州版 後藤たづ子

砂川事件の経験を辺野古に 元被告の武藤さん訪問へ

若い頃に米軍基地問題と関わった経験を、今も基地問題に揺れる沖縄への支援に結びつけようと、福岡県篠栗町在住の農学者武藤軍一郎さん(76)=九州大名誉教授=が近く、仲間たちと沖縄を訪れる。武藤さんは米軍立川基地(東京)を巡る闘争で学生らが逮捕された「砂川事件」の元被告。長年記憶をしまってきたが、昨年末に回顧録を出版。これを機に「裁判の成果をこのままにしていてはいけない」と立ち上がった。
 東京農工大生だった1957年7月、基地内の土地返還を求める農民を助けるため測量反対のデモ隊に参加。2カ月後、他の学生や労働組合員とともに逮捕、その後起訴された。59年3月、米軍駐留を違憲とした東京地裁の「伊達判決」で無罪を聞いた。
 その後、裁判は差し戻し審で有罪が確定。武藤さんは九州大大学院に進学し、同大農学部付属農場に勤務した。事件のことは長年、心の中にしまってきた。
 「安保闘争が挫折し、国民が闘わなくなり、研究者として身をたてる中で避けた面もある」
 3年ほど前に東京農工大校史への執筆を頼まれ、書きながら「自分自身の中で風化している」と感じた。当時の闘争が、同じ県内の辺野古への移設を迫られる沖縄の普天間基地問題と重なった。「今自分が前に出て、伊達判決を沖縄に結びつけなければ」と思うようになった。
 昨年12月、「砂川闘争の記 ある農学徒の青春」(花伝社)を出版。これを契機に「伊達判決」を伝える活動に乗り出した。今月17日から同じ元被告の坂田茂さん、土屋源太郎さんら仲間と沖縄を訪ね、宜野湾市や名護市辺野古、ヘリ発着帯問題に揺れる東村を回る。砂川事件の元被告として沖縄の人を応援できないかと考えている。
 立川基地は闘争の後、77年に全面返還された。本土の米軍基地が撤去されていった一方で、沖縄には多くの米軍基地が置かれたままだ。「沖縄で本土復帰後もそのまま基地が維持されていることについてヤマトの人間が感じなくなっている。悪い」と話す。「沖縄の人は我々が行ってもよう思ってくれんかもしれないが、それでもいかなならん」
 2月10日には本を携え、在沖縄米海兵隊が砲撃演習をする大分県の日出生台演習場で反対運動をする地元の人を激励に訪れた。「畜産の里で米軍が弾を撃つ。許せない」。155ミリりゅう弾砲の着弾音がこだまする中、地域の農家の心情を思い、こう語った。
(後藤たづ子)

 

『救援新聞』2011年3月5日号 中央本部顧問 玉川寛治

著者の武藤軍一郎さんは、大学在学中に1957年7月の砂川闘争に参加し、日米安全保障条約第3条にもとづく行政協定に伴う刑事特別法違反で逮捕、起訴された。
「合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した日本国憲法の精神に悖る」という歴史的な伊達判決で、一審無罪を勝ち取った。武藤さんのたたかいと、それを支えた東京農工大学と九州大学の仲間たちや先生方の活動が生き生きと描かれている。
内藤功弁護士と新原昭治さんの特別寄稿、伊達判決全文は救援会員にぜひ読んでほしい文献である

 

「自由法曹団通信」2011年1月21日 評者 榎本信行(東京支部)

武藤軍一郎『砂川闘争の記──ある農学徒の青春』のお勧め

 憲法を学ぶものなら誰でも知っている「伊達判決」を受けた元被告の体験記である。判決が出たのは、1959年3月だから、51年後に初めて明かされた記録である。
 伊達判決は、砂川闘争を戦った労働者、農民、学生が「安保条約に基づく刑事特別法」によって逮捕、起訴された件について下された判決である。
 判決は、安保条約を違憲とし、後跳躍上告されて、最高裁で破棄差戻になったが、今日でも高く評価されている。この判決を導き出したのが、七人の若者である。その一人が本書の著者武藤軍一郎氏である。武藤氏は、当時東京農工大の学生で、仲間とともに砂川闘争に参加し、デモを組んで基地に侵入したというものである。
 伊達判決では無罪となり、後罰金刑になるという経過をたどるが、その後就職などどうしたのだろうか気になるところである。本書は、そんなことも含めて、当時の学生運動の状況、安保闘争の状況などが描かれ、著者の青春を語っている。著者は、その後九州大学の教授となったので、達意の文章で語られている。弁護士(弁護団)の活躍も無論触れられているので、団員必読の書である。是非、お勧めしたい。

 

『法と民主主義』2011年2・3月号 東京農工大学大学院専任講師 榎本弘行

「伊達判決」を受けた元被告の証言

本書は、1959年3月に下された米軍駐留を違憲とする東京地裁判決、いわゆる「伊達判決」で知られる砂川事件の元被告、武藤軍一郎氏(九州大学名誉教授、農学博士)による著作であり、当時学生だった著者がこの事件とどう向き合ってきたのかを真摯に語るものである。
大学(東京農工大学)に入学した当初は「ノンポリ」ともいうべき政治意識だった著者が、二年生以降は、学生自治会の副委員長・委員長となり「原水爆禁止」の署名・カンパ活動を行う等、学生運動に積極的に参加していく。ただ、決して特段過激な社会運動をしていたわけではなかった。そんなときに、大学にほど近い砂川町での1955年に始まるいわゆる「砂川闘争」に遭遇することとなる。
冷戦構造化の米軍の軍備増強計画を背景にした米軍立川基地の拡張計画に対し、町長・町議会をはじめ町民の多くは徹底抗戦で臨み、土地収用に必要な測量を阻止するための流血のデモを経て、ついには政府に測量を断念させる。しかし事態はこれに止まらず、農民らが米軍に貸している基地内の土地の契約更新をその農民らが拒否し、その明け渡しを政府に求めるという事態に発展していく。これに対し政府は、当該土地の収用で臨み、町民らは再び測量阻止のデモで対抗した。著者は、この後者の測量広義のデモに参加することとなる。1957年7月8日のことである。
このデモに参加した理由について、もちろん憲法擁護のためという大儀もあったが、しかし「なによりも私は農学を学ぶ学生であって、農業を行う農民が困っているのを、……どうして知らない顔ができただろうか」と振り返っている。この純朴な農学徒が事件に巻き込まれていく。1900人の警察官のいる中での測量抗議のデモの際、著者は「気がつくと」基地の内側に入っていた。
1957年9月22日深夜2時、大学寮での「寝込みを襲っての突然の逮捕劇」だった。著者は「頭から血の気が引き」、寮の仲間たちは皆「茫然自失、金縛りにあったように、事態を眺めていた」。逮捕理由は、基地への親友が日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法第二条違反にあたるというものであった。臨時学生大会では、警視庁のある桜田門で武藤即時釈放を訴えるデモを行うことが決議され、大学生300人ほどがこれに参加した。大学教授会も逮捕を学内自治の侵害である旨警視総監に申し入れを行った。
1957年10月2日、著者を含めたデモ参加者7名が、刑事特別法第二条違反で東京地裁に起訴された。そして、1959年3月30日には、米軍駐留を違憲とし、それ故に公訴事実につき無罪とする、いわゆる「伊達判決」が下される。
主文が読み上げられた際、「私は何を聞いたのか、聞き間違えたのではないかと思った。次の瞬間身体が震え、うれしさに大声をあげたくなった」という。しかし、本件は最高裁に飛躍上告され、原判決を破棄し差し戻す最高裁判決が1959年12月16日に下された。
差戻審は、大学院時代(九州大学)に行われる。同じ研究室の人たちが呼びかけ、「武藤軍一郎君を守る会」が結成され、ここでも多くの支援者に支えられた。しかし、地裁・高裁を経て1963年12月26日の最高裁判決をもって有罪(罰金2000円)が確定する。
本書は、事件の貴重な記録であると同時に、現在の若い世代に向けて、自己が直面する困難な社会問題とどう向き合っていけばようのかについて、一つの人生の教訓を示した著作ではないかと思う。そういう意味で、今青春のただ中にある若者にこそ読んで欲しい本である。