2013年4月刊『アメリカ・ロースクールの凋落]』
ブライアン・タマナハ 著 樋口和彦 大河原眞美 共訳

『上毛新聞』2013年5月29日 

ロースクールの弊害指摘  2人が米大学教授の著書共訳

 米国でロースクール修士号を取得した弁護士、樋口和彦さん(61)=前橋市亀泉町=と、高崎経済大の大河原真美教授(58)=高崎市栄町=が同国のロースクールの問題点を浮き彫りにした米大学教授の著書を翻訳、「アメリカ・ロースクールの凋落(ちょうらく)」と題して出版した。「米国の制度を無批判に取り入れた日本の法科大学院制度について考えるきっかけになれば」と話している。
 米国で学位を取得し、大学事情にも明るい2人は米ワシントン大のブライアン・タマナハ教授の著作「Failing law schools(フェイリング・ロー・スクールズ)」を共訳した。同書は授業料の高騰や就職率低下など米ロースクールの問題点を暴いている。
 日本の法科大学院制度は法曹人口の大幅増を目指して2004年に創立された。樋口さんらによると、米国流を"輸入"した日本でも同様の弊害が起き、授業料のために借金を抱えたあげく、司法試験に受かっても就職先が見つからない法科大学院卒業生は後を絶たないという。
 文部科学省の集計では今春学生を募集した69校のうち9割を超える64校で定員割れし、制度見直しの必要性を指摘する声もある。
 樋口さんはかつて民間企業を退職し、学習塾で生計を立てながら司法試験を目指した経験がある。「経済的に苦しい人にとって現在の法科大学院制度では、私のような方法で法曹を志すことは難しい」と指摘する。
 大河原教授も「裕福な家庭にとっては有利だが、このままでは法曹の多様性が失われ、弱者に寄り添う視点が薄れてしまう」と危機感をあらわにする。

『法と民主主義』No.480 2013年7月

法科大学院に「持続可能性」はあるか──『アメリカ・ロースクールの凋落』の書評に代えて早稲田大学名誉教授 戒能通厚

1 タマナハ教授
本書は、Brain Z.Tamanaha, Falling Law Schools, 2012, the University of Chicago Pressの全訳である。
著者のタマナハ教授は、ワシントン大学ロースクールのWilliam Gardiner Hammond Professor of Lawで、法哲学・法社会学の分野でアメリカを代表する著名な学者である。特に、彼が2001年にOxford Social-Legal Studiesのシリーズの1冊として刊行したA General Jurisprudence of Law and Societyは、シリーズの総編者のKeith Hawkins教授(リーダー)によって、西欧中心的な法観念を打破し、法の「反映」論的な捉え方にパラダイム転換をもたらした、と高く評価されている。また、2004年のOn the Rule of Law; History, Politics, Theoryは名古屋大学副総長でベトナム法の専門家の鮎京正訓教授門下である神戸大学国際協力研究科四本健二教授(彼は数少ないカンボジア法研究者の一人である)の監訳で翻訳されている。(『「法の支配」をめぐって』、2011年、現代人文社)。同書の「監訳者まえがき」によれば、タマナハは、漢字表記で玉那覇と書く日系移民の子孫であり、ミクロネシア連邦憲法制定に協力し、同連邦の信託統治下からあの脱却に貢献したとのことである。こういうバックグラウンドから、「法と開発」理論にも詳しく、法整備支援事業に取り組む名古屋大学の招きで、2009年に来日しており、同教授のこの関連の論文も、慶応大学の松尾弘教授が翻訳した「開発法学の教訓」(『慶応法学』、4号、470-486頁)などで読むことができる。
このような幅広い法実務家であると同時にすぐれた法理論家で、しかもロースクールの現職の教授によって、ロースクールを根底から揺るがすような『告発の書』が書かれたことで、大きな反響を呼んでいる。訳者の二人は、アメリカのロースクールもしくは教育事情に詳しい弁護士と学者であり、刊行後ごく短時間で、タマナハの実証データの豊富な、したがって決して簡単でない本書の翻訳を成し遂げられた。
本書は、何よりも、アメリカのロースクール(以下、LSと略すことがある)が、このままでは持続可能でないと断じたものであって、その反響は大きく、アメリカ弁護士協会(ABA)もLSの見直しを開始している(2013年2月に号術のキャリントン報告について、現在はデューク大のキャリントン教授を呼んでヒアリングを開始している; ABA Journal, Feb. 9, 2013)。

2 プロローグ──そして何を「告発」しているのか 
一九九七年末、タマナハが勤務していたニューヨークにあるセントジョーンズ大ロースクールでディーン(本書の訳者は、すべて、これを「法務研究科長」と訳しているが、例えば、ハーバードのディーンであった、かの著名なロスコー・パウンドが、「法務研究科長」ではいささか落ち着きが悪い。後述のようにロースクールは、法務研究科のような一部局(箇所)ではなく、大学からも、したがってその「学長」からも独立しているのであるから、一般的には「学長」でいいのではないか。)の辞任劇が起き、テニュア(終身在職権)をもたない新任教授でもあるにもかかわらず、大学の存亡の危機からの脱出のため、学長に懇請されて、タマナハがディーン臨時代行に選ばれたというエピソードから書き始めている(1-19/13-22[現著者と]。タマナハ臨時代行は、テニュアにあぐらをかき、研究論文も書かず高給を得ている終身教授に自己改革を求め、LS運営の徹底改革と学生の待避改善を一気呵成に進めた。 
わが国の法科大学院をめぐる「論争状況」において、本書を、アメリカのロースクール(以下、時に、LSと書く)をモデルとしたわが匡の法科大学院への非難攻撃に「使える」というように考えたら、それは、著者とおそらく訳者の意図とも異なることとなろう。本邦訳書の「訳者あとがき」で、樋口和彦弁護士は、タマナハのLS批判の内容、つまりアメリカのLSの現時点における問題点を、次のように簡潔に整理している全五九頁)。「ロースクール卒業生は膨大な借金を抱える。法律家需要より多くのロースクール卒業生を輩出し続けるので就職困難となる。景気動向と関係なく法律志望者は減り続けている。多くの若き弁護士は借金返済のため企業法務を目指す。金持ちでないと法曹を目指せない傾向がある」。
「こうして弁護士は余っているのに、当事者訴訟が多くなるほど、需給ギャップが存在する。これら問題点は注目に値する」、と樋口弁護士は整理する。これは、タマナハから学ぶべき点の一つの抽出方法である。
しかし、私は、むしろ、LSの failingの理由についての、彼の科学的分析の方法と結論に注目する。授業料高騰と学生の債務の増大、ナショナルLSであるエリート校による弁護士独占という事態を何とか打開するために、エリート校と競争したLS(具体的には文末に出てくるカリフォルニア大学アーバイン校のような州立大学)も結局、有名学者を集め、「USニュース」という格付け誌によるLS格付け上位を狙うため、LSAT(LS適性試験)とGPA(学業平均点)の高い学生を授業料免除または割引きと壮麗な建物や重装備臨床教育(クリニック)施設で誘い、これによって寄付金を含む元手を失ってしまい、州立LSであるにもかかわらず、授業料の値上げによる学生の借金漬けを生み出してしまっている。タマナハは、「エリート校」を設立しようとした、ボタンの掛け違いを指摘する。しかし、同時に、エリート校によって作られている競争秩序(タマナハはこれを「LSの持続不能の経済モデル(unsustainabable economic model of LS)」という)」、すなわち、LSの制度=市場モデルそのものが、問題の解決を困難にしているという勇気ある指摘を、堂々と行っている。このことに、私は、共感を覚え、重要な示唆を得た(182-185/二一九─二二三)。そこには、法の経済社会に及ぼす機能の分析にも精通した、彼の「法と社会」理論が十二分に駆使されている(ちなみに彼は、アメリカ最大の法学会で日本の法社会学会も加盟しているLaw and Society Association )の理事で学会誌のeditorである)。
樋口弁護士は、先頃、一定の結論を出した、内閣の「法曹養成制度検討会議」について触れ、議論の主流は、法科大学院の存続を前提として、いかに法曹志願者の減少を食い止めるか、「プロセスとしての法曹養成」がいかに大切であり、守られなければならないのか、となっている。これへの反論は、最終意見には反映されていない。このようなとき、法科大学院のモデルとされたアメリカのロースクールの実態と現状を紹介することに大きな意義があると、本書を翻訳するに至った意図を述べている(二六五─二六六)。
地方の大学や夜間の法科大学院への一定の配慮を条件としつつも、司法試験合格者数を基準に法科大学院の定員削減・統廃合の方向を打ち出した「検討会議」は、タマナハの言うエリート校の基準に他を従わせ、「持続不能のLSモデル」を強行する道を選択したのに近い。司法番が言った「修了生の七割から八割が司法試験に合格する」という指標に近づけるため、法曹を目指そうという学生=分母を縮小させ、「エリート校」による養成に委ねることにし、合格率の低迷による法科大学院への批判と法曹志願者の激減に応えようとしているだけのように思える。
ローマ法の権威の木庭頭教授は、「法科大学院という制度は、生まれ落ちた時から誰からも自分の子ではないと認知を拒まれる、気の毒な子である。……気の毒なのはもちろん学生諸君である」、と言っている。木庭教授は、卒業生の質とともに司法試験の合格率が下がり、志願者が減り、社会的に攻撃されるという因果連鎖を切るために、法科大学院の数を減らしてこの因果連鎖を切るという案には「触れない」としつつ、「こうした混乱とお粗末」以前に重要な問題があったことが、「多くの人々の意識から抜け落ちている」という問題を提起している(「法科大学院論議をめぐる議論に見られる若干の混乱について」(『UP』(東大出版会)二〇一三年二月号所収)
「重要な問題」とは、「高等教育の世界大の転換」に日本が乗り遅れているにもかかわらず、「法科大学院には今もって法曹養成の脈略しか与えられていない」点であると指摘する。まさに法曹人口増のための戦略的な手段として、「世界大の高等教育の大転換」という大学の教育理念と戦略としてではなく、実質的には弁護士需要の「市場調査」なく、あるいは、あってもそれを無視した、急激な増員論に呼応して急ごしらえされたのが、法科大学院である。それ故、このままでは法曹養成の脈絡しかない。しかも、悲しいことに、これによって、わが国にもようやく育ちつつあった弁護士集団という自治集団を、ほかならない自治集団であるはずの大学が破壊する役割を、客観的に演じてしまったのではなかったのか。自らの自治とともに 他者の自治をも破壊したのではなかったのか。 
私も、木庭教授とともに、この「世界大の」課題を意識し、大学の法学教育の総体の劇的な転換を希求する。しかし、検討会議の結論からは、それへの展望が見えない。法科大学院と法曹人口の連鎖を断ち、法学部と法学研究者養成と法曹養成の三者の総合設計をし直す必要があるのであって、法科大学院を維持するための数字合わせでは、「世界大の課題」に近づくことさえできないと考える。
法科大学院を肯定している私の友人も、「統廃合論」は、大学における法学教育の可能性を切り詰める「プロクルステスの寝台」という感じがすると言っていた。
拙速に創られた法科大学院には、欠陥が顕在化して当然の面がある。どこに問題があるのかを、タマナハに学び、根本から検証し直す見識が必要ではないか、と心から思っている。書評にふさわしくないが、残された紙幅で、この点を見てみよう。

3 「プロセス教育」という強制と「持続不能のLSモデル」
タマナハは、こう言っている。
「ロースクールに対する苦情は、法律家養成に失敗しているということだけではなく、さらに法学研究の研究成果が、法から完全に離れてしまっているということでもある。二〇一一年にローバーツ連邦最高裁長官は、“私が理解する限りにおいて、ロースクールが行っていることは、実際に法実務に関わっている者にとっては、大部分が無駄でつまらないものである”と言っている」(55/七九)。
誰よりも「法理論」を重視し、そのためにギリシャ=ローマの古典を尊ぶタマナハであれば、このローバーツ長官の主張に反撃するのが当然だろう。しかし彼はそうしない。むしろロースクールの学生は、「弁護士として成功するために技術を学ぼうとしている。実務経験がない、あってもほとんどない教授が学生に法実務の養成をすることが理想的に適合しているかどうかは疑わしい」(59/八三)。さらには、「ここまで読まれて本書を研究の価値に対する攻撃と考える法学研究者が出てきそうである」と述べ、そこから聞こえる「怒号」を次のようにかわしている。「むしろ、我々がしなければならないことは、法学研究が過熱することのコストを批判的に調査することだと言いたい。LSの学生が、現在のレベルで、そしてLS一律に、研究活動の支払いを強要されることが適切だろうか、ということを問われなければならない」と言う(60-61/八五)。
私は、このあたりにタマナハのしたたかな「戦略」を感じる。ローバーツ長官に正面から反論するのでなく、LSを持続させる戦略を練ったのである。先に、「検討会議」は、「プロセス教育」の「死守」を選択したと述べた。しかし、この選択は、法科大学院修了を司法試験の受験要件とするという方向を譲らないというメッセージに他ならない。わが国のトップ法科大学院の成績優秀な学生は、法科大学院の二年間がなくても司法試験に合格する。受験要件にされるために法科大学院に入学するが、予備試験で法科大学院をバイパスしたいのが本音であろう。これを一定の社会経験が必要と言うことで、学部在学生の予備試験受験要件に制限を加えようという動きがあると聞く。やめるべきである。反対に、先の木庭教授が言うように、トップレベルの法科大学院の学生は、同教授の高度な講義を喜んで受講するようであるが、他でもみられる現象であって、この自発性こそ大切である。研究とともに、試験勉強も、お仕着せの「プロセス教育」の強制にはなじまない。しかし、「統廃合」後を見越し、トップレベルの法科大学院では就職できていない自校出身弁護士を付設の事務所に就職させ、司法試験合格者数というアメリカのLSの場合よりもはるかに明認しやすい「格付け」競争に備えようとしている。
アメリカのLSの事情に詳しく、だからこそ一三年前のLSの導入「フィーバー」のとき、彼のアメリカの友人たちとともに危恨の念を表明していた英米法の大家の藤倉暗一郎教授は、アメリカのLSをモデルにすることは、「日本の法学教育制度を設計するための議論のきっかけではあっても、目標ではない」と言った。それととともに、アメリカと日本を比較しつつ、「それぞれの制度のコスト計算」をすべきであると提起していた。同教授は、「日本にあってアメリカにないものは、官僚組織が司法制度・法学教育を支配していること」であるとし斜アメリカにおけるロー・スクールの実像」、『法律時報』七二巻一号所収)、さらに、「LSは大学院レベルのプロフェッショナル・スクールとして、大学組織のなかでも独立の経営体である。……財政上も組織上も、政府からも大学からも実質的にも独立している」とも述べていた(「法科大学院はアメリカのロー・スクールたりうるか」、同誌、七七巻一〇号所収)。
 藤倉教授が強調されるLSの「独立性」は、いい意味でも悪い意味でも、日本の「法科大学院」にはない。とりわけ、何よりもまず「アメリカLS協会(AALS)のような政府から独立した強力な連合組織は、日本には存在しない。テニュアの意味も違う。アメリカでは、「研究者」であるLSの教授たち、とりわけ終身在職権がある教授を一定比率雇用していないLSは、アメリカ法曹協会(ABA)による「認証評価」(accreditation)をパスできないのである。日本の法科大学院教授のテニュアは、年齢による差別で定年制を憲法違反とされることもなく、「定年」があり、客員教授の「任期制」も認められている。幸いなことに、研究費全額を学生の授業料から得ると言うこともない。こうした差異に注意しつつも、先のLSATといい、GPA、ABAに相当する日弁連そのものではないが法務研究財団という認証評価機関の一つによるaccreditation processといい、見事なまでのコピーである法科大学院制度とアメリカのLSの比較は、可能であり有益でもあろう。

4希望はあるのか
タマナハの問題提起以前から、アメリカでは、エリート校によって作られABAによって強制されるLSの評価システムに異論を述べる動きがあった。そして、エリート校に都合良く作られた認証評価基準では、労働者階級の学生は高額の授業料負担のため事実上法曹の道を断念せざるを得ないということで、ABAの認証を受けていないアトランタのLSのような低額の授業料で学習できる例があった。けれども、ジョージア州最高裁がABAの認証評価を必要と判断し、この結果、このLSは企業に買収され、ABAの認証基準に適合するように改造され、高額の授業料を取るようになった(18-19/三四─三五)。
タマナハによれば、一世紀前のLSには、学究重視と安価な費用でよい法律家を養成するというLSの存在も認めようという「分化した教育システム」についての合意があったが、ABAとAALSの基準によってエリートLS基準に一元化されてしまったという。しかし、一九七一年にミシガンLSのポール・キャリントン教授を中心とした著名な法学教育者によって、Carrington Reportが出された。このキャリントン・レポートは、LSの教育期間を三年でなく二年で十分とするとともに、より抜本的に、学部の授業を三年履修した者を対象に二年間のJD(法務博士)になるためのプログラムを提唱していた。タマナハは、これを事実上「法学部」とLSによる法律学位と捉え、「そもそも法律学位は、多くの国で学部で取得するものである」、と言っている(20-21/ニ六─三七 ;172-173/二○九─二一○)。 
タマナハは、「未来への希望」を語る。そして、「分化した教育システム」を実現することは一気に可能であると言い、ABA仕様と教授陣の利益のために作られた規則を廃止させ、「学生が法律家になる ための訓練に焦点を絞ったカリキュラムを自由に立てること」を目指すべきだという。したがって、すべてのLSにエリート校向きの基準を強要するのでなく、学問面に重点を置くLSもあれば、技術志向のLSもあってよく、二年でJD学位が取得できるところもあれば、三年目に様々な付加価値をつけるLSもあるのでよい。そういうことになれば、一定の型を意識した法学も、分化が促進され、LSの格付け上位を求めて研究の量に腐心し、硬直化している研究の活性化も期待できる、と希望を語っている(172-176/209-212)。
「プロセス教育」とは、司法試験受験要件という強制がなければできない教育なのだろうか。テニュアのある教授を一定数そろえなければABAの認証評価をパスできないというアメリカのLSは、維持できなくなりつつある。日本でも上位校は、下位校がなくなれば薄い平面に浮遊して存在するだけにすぎない。法学部との関係も制度上は切断されているので、まことに脆弱である。そうしている間に法学部の崩壊が始まり、研究者は限りなくゼロに近づく。それで果して「持続可能」なのか。「持続可能な」LSを求めて、したたかな戦略を練ったと思われるタマナハに学べないか。
 本書は、実に豊富な示唆に満ちている。