2013年7月刊『人はなぜ御用学者になるのか』島村英紀著

『長周新聞』2013年8月5日

国策・企業におもねる科学者
地震学会は原子力ムラの一環 つじつまあわせより真実を

地震学者・島村英紀の『人はなぜ御用学者になるのか』が発行された。副題が「地震と原発」とあるように、東日本大震災と福島第一原事故によって暴露された「原子力ムラ」と地震学者、地震学会の緊密な関係を通して、御用学者が生まれる社会的な要因を考えるものである。そのことで、料学と社会、科学者と大衆、科学を含む広い意味での文化と政治の関係を、人類の歴史の到達のうえに立って考察する入門書ともなっている。
本書は、「人はなぜ御用学者になるのか」のタイトルで、昨年の長周新聞新年号に掲載された文章を序章に構成されている。
福島原発事故の解説者としてテレビに登場する原子力関係の専門家が、原発爆発の映像を前にしても「安全」一点張りのウソをついて平然としていたことは、それまで「安全神話」を支えていた日本の御用学者の有りようを赤裸裸に示すことになった。彼らは国策を遂行するための各種審議会、委員会に名を連ね、マスメディアと癒着し、裁判所からも庇護される特権集団として腐敗三昧の日日を送ることで、生涯を保障される存在なのである。
いかなる権威や風潮に惑わされず真理・真実を瞳のように大切にする潔癖さが求められる科学者がその一部とはいえ、なぜいとも簡単に堕落すのか。多くの人人が疑問に感じる点である。

多額の研究費と地位で真実歪曲

著者はくり返し、「最前線の科学者は孤独な戦士」であり、「研究成果というエサを追って車輪を廻し続けるハツカネズミにすぎない」という心情を吐露している。科学者の研究は不断に見ぬ競争相手とのしのぎを削るたたかいであり、地道な研究で画期的な成果を上げても、その発表が他よりも遅れたなら無に帰するという世界である。
原発や地震予知など大きな国策を支えるため研究は、そのような努力をせずとも多額の研究費と大学での地位を得ることができ、審議会の委員などにも招かれ名誉欲を充たすものとなる。またこれらの研究分野では、政府や電力会社などの企業は、夜の飲み代もタダにしてくれるなど「私的」の面からもいたれりつくせりである。これは、孤独な戦場にいる科学者にとっては、麻薬のような魅力となる。こうして、学問・研究世界では二流、三流の科学者が安泰を決め込んで生きる道、国策や大企業の利益のために、真理・真実を覆い隠すために使われる御用学者の道が開かれてきたのである。
著者はこれまで「地震予知」「緊急地震情報」「津波警報」など、国が大がかりに組織する研究のいびつさとともに、地震学会の御用化や気象庁の役人的体質を批判してきた。それは、地震学が関わった国(気象庁)の情報のあいまいさによって、地震や津波による被害の拡大をもたらす結果を生んできたからである。東日本大震災でも津波警報を聞いて避難した住民が圧倒的に少なかったことから、多くの人命を失った。著者は、この間に出された津波警報が不備のためほとんどあたらなかったことから、「オオカミ少年」化してきたことを強調している。
このことも含めて、著者は地球物理科学・地震学の研究でどこまでわかっているのか、なにがわかっていないのかを一般の人人に伝えるための発言をたゆむことなく続けてきた数少ない科学者の一人である。それは御用学者を育むうえで、「わかっていること」 と「わかっていないこと」をあいまいにすることが必要とされ、そのような科学を冒涜する風潮が振りまかれてきたことと関わっている。
著者は、地震学会の御用学者が、地震列島に原発を林立させる国策の必要から育成されたことを明確にしている。原発建設のうえで、「経済的に引きあう程度」の地震振動を見積もらせたり、地震予知によって不意打ちの被害も避けられるという「専門家のお墨付きを得るために、ぬかりない抱き込みが周到にされてきたのである。
地震予知研究はおよそ五〇年前から国策として進められ、一時は一世を風靡したものだが、近年の地震学の成果は地震予知が不可能であることを明らかにしてきた。著者はこの地震予知研究が、安全な原発を求める必要から国策とされたこと、そのために国や電力会社から潤沢な研究費が施されてきたことをあらためて浮き彫りにしている。

一度も成功例のない「地震予知」

御用学者にとっては、地震予知は可能という国や電力会社の求めに応えることが大前提である。地震学会でもそれを否定する研究者は冷遇されてきた。しかし、半世紀にわたって多額の資金と人材を投入して進められてきたにも関わらず、この間、東日本大震災にいたるまで、地震の予知に一度たりとも成功したことはない。阪神淡路大震災以後、地震予知が不可能であることがわかり、科学的には決着がついている。
しかし、政府はそのことをあいまいにしたまま、「地震予知」の看板を「地震調査研究」にかけ替えた。そして打ち出してきたのが、今はやりの「将来の地震確率」や「活断層調査」である。だが、これもその後発生した大地震がそこで高い確率を予想した以外の所ばかりで、活断層のない所でもあった。
南海トラフ地震が起きる確率が「三〇年以内に七〇%」とされ、マスメディアが騒いでいる。だが、これもこれまで失敗し続けてきた延長線上で、「東海地震と東南地震と南海地震の確率を足し合わせて"肥大"させただけのもの」なのである。ここでも、地震学研究の限界をはっきりさせ、なんのための地震研究なのかを、その原点に立ち戻って転換する必要性が強調されている。

地震の被害を減らす研究こそ必要

必要なのは、そのような数字のつじつま合わせで国民を惑わすことではない。「日本人にとって大事なことは、地震が来ても大きな被害を出さないこと」である。「地震は避けられないが、地震の被害は人間の知恵と工夫で避けられるし、また避けなければならないものなのである」。という立場観点からの研究の振興であろう。
「ノーベル賞とは策を弄して分捕るもの」 「常温核融合とは、税学者の売名と科学者として生きるために必要な研究費獲得のためのペテン」である。
本書で紹介されているこうした言説の真実性も、海底地震計の開発・観測や南極も含めたフィールドワークを積み重ねて、諸国の科学者たちと地球科学の前線で研究してきた著者自身の豊かな経験に裏づけられたものとして、強い説得力を持っている。
本書では、国際的な政治的駆け引きの具となった「地球温暖化」論もとりあげ、それはすでに科学の問題ではなく政治問題となっていることらにIPCC(気候変動に関する政府間パネルに関わる各国の学者が、原子力産業やそれを後押ししている政府の御用学者として果たしている事実も明らかにしている。
日本で「エネルギー・資源学会」が、温暖化疑論のすべてに反論して、地球温陵化の宣伝活動をおこなっている。著者は、この学会には地に関する科学者が少ないばかりか、理事や歴代会長には大学教授だけでなく日本原子力産業協会理事長、電力会社や電力中央研究所の役員が名を連ねるなど、「原子力ムラが入り込んで影響力を及ぼしている」ことを暴いている。

社会的に有益な研究こそが使命

著者の論述は、今日資本の論理に従属した科学政策のもとで孤立した存在をよぎなくされている科学者が、国家の政策の掌(てのひら)に乗せられるのではなく、社会的に有益な活動を進める方向に目を向けたものになっている。次のような著者の指摘は、その意味で、示唆に富んでいる。
「科学は、たとえば芸術と同じように、それを理解し支えてくれる社会の一部、つまり広範で総合的な文化の不可分の一部のはずである。一般の人も科学者も、科学と文化、科学と社会についてはもっと考えるべきであろう」
「科学者は、それぞれの専門の領域では専門家だが、その成果を材料にして考えるのは科学者だけの役割ではない。科学者が得てくれた材料に基づいて考えるのは科学者以外の人たち、広く言えば文化の役割なのである」